scramblegarage’s blog

札幌で活動するストリートパフォーマーによるストリートパフォーマーのための「練習・発信・交流」の拠点を作るプロジェクト。

萩原 雄太のセパタクローにかける想いとは——スクランブルガレージ運営メンバーインタビュー企画

スクランブルガレージ運営メンバーの顔が見えるようにということで始まったインタビュー企画。

今回のメンバーはスクランブルガレージ運営の萩原雄太。セパタクロー選手として日本国内はもちろん、海外の様々な大会で優勝や入賞を多数経験している実力者である。札幌を中心にセパタクローのレベルアップや、普及活動にも力を入れている。そんな萩原雄太とはどんな人物なのかに迫ってみた。

 

 

——まず、セパタクローというスポーツについて簡単に説明していただけますか?

 

萩原:セパタクローはバドミントンコートを使って、3人対3人で行います。ネットを挟んで足や腿、頭を使ってボールを相手コートに返し合うバレーボールに似た競技です。

チーム内連続3回までのボールタッチで相手チームへ返さなければならないのですが、1人でボールを連続3回タッチしてもOKなところがバレーボールと異なるところです。また、3つのポジションのローテーションはなく、それぞれ自分のポジションに特化して練習し、試合では3人の力を合わせて攻撃を組み立てていきます。

 

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——3人の力をどうやって合わせていくかは重要になりそうですね。では、セパタクローを始めたのはいつですか?

 

萩原:大学1年生の時です。なので競技歴は16年になります。

 

——始めたきっかけは何だったのですか?

 

萩原:中学生の時にマンガの「キャプテン翼」を読んだのがきっかけです。試合のシーンにセパタクロー三兄弟が出てきて、この競技は何だろうと興味をもって。その年にバンコクで開催されていたアジア大会をBSで見たら、キャプテン翼のオーバーヘッドキックと全く同じことを選手がしていて「やりたい!これしかない!」と思ったんです。

そのやってみたいという思いを持ったまま中学高校を過ごし、大学生になってから通っていた大学とは別の大学にあったセパタクローサークルに入ってようやく活動を始めました。

高校のパソコン授業の調べ学習テーマをセパタクローにするくらい好きで、高校時代から絶対その大学のサークルに入ると決めていたんです。そのときからこのスポーツで日本代表になると周りに言い続けていました。まだ始めてないのに(笑) きっと自分は向いてるという思いがどっかにあったんだと思います。

高校時代は大学に入ってセパタクローをするための準備期間だと考えてできることをしていました。例えば、当時録画したBSの映像を何度も見返したら体の柔らかい選手ばかりだったので、自分も柔軟したりしていました。

 

——では、大学に入ってやっと念願の練習ができたのですね。そのあとはずっと大学のサークルで活動していたのですか?

 

萩原:大学のサークルには最初の3年まで所属し、4年目からはより競技中心のクラブチームへ移籍しました。

ただ、4年制の大学ですが、入学したときに5年かけて卒業しようと決めてたんです。大学入った最初の年がアジア大会選考の年だったので、次のアジア大会は絶対出場しようと思っていました。それに向けて逆算したら3年目に日本代表になってないといけなくて、4年目に主力になってなくちゃいけない。その成果から5年目にアジア大会に選ばれるというステップアップが明確に自分の中にあったんです。だから基礎練習をしっかりしなければいけないと思い、学長に「1日にこれだけの練習をしますから」と言って説得し、練習するために休学しました(笑)朝から夜まで練習してましたね。休学してるのに大学の体育館に毎日通いましたよ(笑)

親には最初すごく怒られましたね。でも真剣に今しかないんだって伝えて分かってもらいました。

 

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——具体的にはどのような練習をしてきたのですか?

 

萩原:日々の練習から世界で勝つことを意識して取り組む中で、レシーブ力を上げる事を第一に考えました。海外の選手のサーブは速いので、その速さに慣れるためにテニスラケットで打ってもらったボールをレシーブしたり、至近距離から投げて貰って、反応速度を上げる事を意識しました。そこからトスが上がった時に自分のできる選択肢を増やし、アタックで複数のコースを狙える高さと視野の広さを意識しながら練習し続けました。

過去や今の世界大会を見て研究しても、それは「今」であって、そこに自分が追いついたときには「過去」になっていて取り残されると思うんです。だから先に先に考えて、技術を高める必要があると思ったんです。

 

 

——今までの練習でつらかったことや苦しかったことはありますか?

 

萩原:苦労したことは特にないかなぁ。苦労したことはないですけど、一番工夫したところは、頭の中で架空の理想の練習相手をつくって練習し続けたりしました。

例えばですけど、学生たちと試合をしているときも頭の中で海外の選手と試合をしたりしていました。もっと厳しいコースに打って来るかもしれない、緩急をつけて揺さぶって来るかもしれない、高さ、速さ、想定外を想定内にできるように準備をし続けていました。そうすることで試合中の切り替えというか、目の前のこと+αを考えて動くことがうまくなった気がします。

 

——16年の競技歴の中で辞めようと思ったことはないのですか?

 

萩原:辞めようと思ったことは今までに2回あって(笑)

1回目は2006年ですかね。その年の学生大会で日本一になったのですが、日本代表には選ばれなかったんです。そのとき辞めようかなと。ただ、同じチームの先輩選手はアジア大会の日本代表に選ばれていて、だったらその選手のサポートをするために、もう少しだけ自分も一緒に練習をして、上手になって、一緒に高めてから終わりたい。そう思って練習を続け、アジア大会が終わった後の1か月間は練習も何もしませんでした。でも、なんとなくまた練習に戻ったら、「あれ、なんかうまくなってるかも」って思いまして(笑) サポートのつもりだったけれど、目標を持っている選手と、集中して、一緒に練習していたことで自分もうまくなったことに気づき、やっぱりもう少しだけやってみようかなと。

あとは、日本代表になれなかったから辞めようと思っている、ということを大学時代の先生に相談したんです。そしたら先生が「もうすこしやってみたらいいじゃない」って言ってくれたんです。

その先生は、スキージャンプの日本代表のコーチとかをしている方で、スポーツのことをよくわかっているので、最後にこの人に言おう、この人なら辞めると言っても分かってくれるんじゃないかなと思ったんですよね。そう思っていたので、もしあのとき「もうすこしやってみたら」ではなく、「お疲れ様」って言われてたら本当に、確実に辞めてましたね(笑) あの一言は大きかったです。

次の年、初めて世界選手権に出場でき準優勝をして、「世界でするセパタクローは楽しいんだな」「あきらめなくてよかったな」と思いました。

 

——辞めたいと思った2回のうち、残りの1回というのは……?

 

萩原:残りの1回ですか?(笑) 2014年のアジア大会の落選を最後に選手を辞めようと思いました。アジア大会優勝が代表選手として自分の最終目標でしたので。

それでも辞めずに続けてきたのは、目標を持って頑張る人たちの熱意を見てきたからというか、人に恵まれていたからですかね。北海道だけではなく、日本中の大会に出させてもらって、日本中の選手に育ててもらったし、お金で買えない価値をもらったと思っているんです。だから先輩たちの思いを後輩たちに伝えてつないでいくのが自分の使命だと思うし、その人たちの夢を叶えてあげられる存在になれたらいいなと思っています。

 

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 (前列 右端)

 

——自分だけではなく後輩へつないでいくことで、今後ますますセパタクローが盛り上がるのではないかと私もなんだか楽しみです。そんな萩原さんは、普段どこで練習しているのですか?

 

萩原:今はTAK-TAKというチームに所属し、コーチ兼選手をしています。選手を兼ねたコーチの「選手兼コーチ」ではなく、コーチを兼ねた現役選手という意味を込めた「コーチ兼選手」という言葉を使っています。

自分の経験を、プレーをもって伝えるということが自分の使命であり、やるべきことだと思っているので、結果を残す姿を見せながら一緒に学生たちの課題を練習しています。昔は週7で通っていましたし、今も練習に行きたい気持ちは変わらないのですが、やはり毎日は厳しく、基礎練習中心に週3ほどで練習しています。

 

——セパタクロー以外に趣味はありますか?

 

萩原:趣味は…カラオケかなぁ(笑) 一人でも行っちゃうくらい好きです。なんかストレス発散になるんですよね。

 

 

——ここまでお話聞かせていただいて、本当にセパタクローが好きだということが伝わってくるのですが、そのセパタクローの魅力はなんですか?

 

萩原:セパタクローのポジションは3つあって、身長など関係なく、誰でも必ず3つのどれかにつくことができるんです。

自分はアタックをやっているのですが、空中の格闘技と呼ばれるほどのネット際の攻防がとっても楽しいんですよね。

アタック以外では、相手から来たボールを丁寧に上げる繊細なボールタッチが一番の魅力だと思います。ボールを足で「蹴る」ではなく、「持ち上げる」という表現をするのは、セパタクローだけではないかなと。

あとは1チーム3人なので、3人全員で気持ちを合わせ、コート内でどれだけ持てる力以上を発揮してプレーするか、というところも楽しいですし、魅力です。

何年やっても飽きないですし、体育館にいるのが落ち着くんですよね。本当に面白い中毒性のあるスポーツです。やめられない(笑)

 

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——セパタクローはストリートとして練習したりしますか?

 

萩原:自分は外での練習はあまり多くないですが、海外の、例えばタイなんかではストリートのスポーツとして親しまれ、子どもから大人まで公園でしていたりします。そういう場面を世界大会の時に目の当たりにして、自分もこうしたいなと思うようになりました。カッコつけて見に行くスポーツももちろん大切ですが、セパタクローは気兼ねなく見に行ける、特別なスポーツじゃないスポーツにしていきたいです。もっと身近になって、スポーツショップでセパタクローのボールが買えたらいいなと、そうしていきたいなと思います。

 

 

——もっと社会の中で身近なスポーツになっていけたらいいですよね。では、札幌のストリートの魅力は何でしょう?

 

萩原:やはり札幌の魅力はジャンル間の交流が一番だとおもいます。自分とは違う新しいジャンルが隣で練習していたら、自然と取り込んでいく柔軟さというか、どんなジャンルも受け入れる器の大きさが札幌のストリートの魅力じゃないですかね。

 

 

——スクランブルガレージとつながったきっかけは何ですか?

 

萩原:札幌ストリートの魅力を発信してるいそじゅんさんという方が、龍くん(代表 龍太郎)をつなげてくれたのが最初です。夢を持つ人たちが集まって、今ではなくこれからどうしていくかという未来に向けた話し合いを続けていける、素敵な仲間です。

今、自分はメンバーのような「パフォーマー」ではないのですが、今後、セパタクローをパフォーマンスするという新しい道をつくり、セパタクローの魅力を発信できたらと思っています。

 

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——私もぜひパフォーマンスを見てみたいです。では最後に今後の夢や目標を教えてください。

 

萩原:結果にこだわって、日本だけでなく世界に通用するプレーをしていきたいです。選手として上を目指す姿を後輩に見せ続け、後輩たちを世界につなげたいです。

また、北海道がセパタクローで盛り上がっていけたらと思います。関東に比べて北海道は日本トップとの練習の質の差があるように思いますが、北海道から世界へ飛び立つ選手を育てたいです。そのためには今日のためではなく、明日や未来のために練習していかなくてはなりません。さらに、競技者だけではなく、試合を見に行くなどの愛好者も増やせたらいいなと思います。

目標としては、2026年に名古屋でアジア大会が開かれる予定なんです。その大会に北海道から1レグ(1チーム)を出すことです。もしそれが実現できたら、きっと嬉しさで試合見れないだろうな(笑)